こんにちは。愛知お散歩ナビゲーターのほとんどうどんです。
旧東海道
今日は名鉄の本笠寺駅で下車しました。
グーグルマップによると、この何処にでもありそうな道が東海道だそうです。
東海道の石碑がありました。比較的最近に建てられたものでしょうか。「是より北よびつぎ」と刻まれています。
よびつぎはもちろん「呼続」ですね。
東海道からほんの少し外れたところに緑の森があり神社があります。
富部神社
富部(とべ)神社です。
富部神社は名古屋市南部の笠寺台地上に位置します。江戸時代には台地は松に覆われた大きな島とみられ「松巨島(まつこじま)」と呼ばれていました。
古代、台地の周辺は海で「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、海を広範に眺めることの出来る景勝の地であり、「愛知」の地名のおこりの地とも言われています。
万葉集では「桜田に鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟 汐干にけらし鶴鳴き渡る」「年魚市潟汐干にけらし知多の浦に 朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」と詠まれています。
海を広範に眺めることのできるこの景勝の地に、慶長年間、清洲城主松平忠吉公は富部神社を創建いたしました。桃山建築の姿を残す本殿は、国の重要文化財に指定され、祭文殿・廻廊そして享保12年(1727)作の山車は名古屋市指定有形文化財に指定されています。
約400年にわたり、この地を守り続けてきた富部神社は、現在も変わらぬ四季折々の美しい姿で、地域の憩いの場として、また地域の守り神として人々の信仰を集めています。
境内にある石碑です。戸部新左衛門正政直とありあます。戦国時代の武将です。
説明版には悲運の武将と記されています。
尾張の織田氏と駿河の今川氏が敵対していた戦国時代、戸部城の城主の戸部新左衛門は今川義元の忠実な家臣で武勇に優れ、最前線で善戦していました。
手を焼いた織田信長は何とか新左衛門を亡き者にしようと画策し、新左衛門の筆跡を家来に真似させ、信長に内通している旨の偽書を信じた義元は烈火の如く怒り、新左衛門を呼び寄せ、途中吉田(現在の豊橋)で有無を言わさず切腹を命じたのです。
弘治3年(1557年)5月1日新左衛門は無念にも非業の死を遂げました。今川義元が桶狭間の戦いに没した3年前の事で、この謀略が無ければ義元の上洛があり得たかもしれないと言われています。
戦国時代の勢力図に関わるくらいの武将だったようです。
これが戸部新左衛門のお墓のようです。
もともとこの近所の戸部町3丁目にあったそうですが、区画整理でこちらに移設されたそう。
ほととぎす 泣いてすぐるや 戸部の城
拝殿と言えばよいでしょうか。お参りの人が来ていました。
この内部にある朱塗りの本殿が国の重要文化財の指定を受けています。
呼続公園
富部神社の裏に呼続公園があります。
池がありました。
池のほとりに源頼朝公が上洛の折、旗を掛け休息を取ったとされる松がありました。
源頼朝公旗掛松の碑がありました。