愛知お散歩なび

愛知お散歩人のほとんどうどんが公園、施設、工場、神社仏閣、その他いろいろ興味のおもむくまま歩き回ります。なるべく車を使わないエコな旅をします。

西三河の戦争遺跡 明治航空基地跡を訪ねて(安城市)

 

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こんにちは。愛知お散歩ナビゲーターのほとんどうどんです。

 

先日あるところで、あの安城市に戦時中に航空基地が存在していたことを知りました。

 

半田や大府に飛行場があったことは知っていましたが、安城市にもあったのはビックリですね。

 

そこで今日は今も残る航空基地の痕跡を探しに行ってきました。

 

基地の名前は明治航空基地と言います。

 

明治航空基地とは

 

 明治航空基地は、東端町・根崎町・和泉町にまたがる地域(旧碧海郡明治村)に造られた飛行場です。周辺住民の協力や近隣の中等学校生徒による勤労動員などもあり、突貫工事で建設が進められました。

 

工事の途中、昭和19年(1944)5月20日から第345海軍航空隊明治派遣隊によって、基地の使用が開始されました。彼らは実戦用の新鋭機を使いこなせるようにするための錬成教育を受けました。

 

 戦局が悪化し、アメリカの長距離爆撃機B-29が来襲するようになると、迎撃戦に参加するようになります。明治航空基地からは、昭和19年12月13日から翌年2月15日まで、計14回の出撃が行われました。

出展:

安城市/明治航空基地



たしかにこのあたりの安城市は平たんで土地が広いので航空基地を作るのには適していそうです。

 

 

燃弾庫(特別養護老人ホームひがしばた内)

 

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ひとつめの燃弾庫は意外なところにあります。特別養護老人ホームひがしばたの敷地内です。

 

燃弾庫はドラム缶入りの航空燃料や弾薬を、敵機の空襲から守るための保管庫です。

 

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分厚いコンクリート製で穴の高さは2mくらいでしょうか。当時は土や草木で覆われ、敵機に簡単には分からないようになっていたようです。

 

 

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燃弾庫の大きさが安城市が設置した看板に書いてありますね。長さ10.9m、幅3.5m、内部高は2.0m、厚さは側壁で60㎝とあります。

 

また基地には最盛期で航空機217機が配備され、隊員総数4,078名いたとあります。かなりの規模だったことがわかります。

 

看板の地図にもありますが、空港は北地区と南地区があり、こちらは南地区の施設となります。

 

明治航空基地之碑

 

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燃弾庫から南西へ300mほど、東端公園内に明治航空基地之碑があります。

 

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碑文には航空基地の歴史が記されています。以下、書き出してみます。

 

太平洋戦争たけなわの1943年4月、横須賀海軍施設部の監理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約200ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。

 

そして、翌年5月下旬から終戦の1945年8月15日にいたるまで、建設工事と並行して海軍航空隊が航空基地として使用した。

 

その間、配備航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(「零戦」「紫電」「月光」「彗星」「天山」「彩雲」等)の使用に慣熟させるための錬成訓練を行うとともに、1944年12月から翌年4月にかけては、作戦部隊として、主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の迎撃や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。

 

また1945年1月13日早朝、この地を襲った三河地震(東端の被害、住宅全壊77、同半壊121、死者24、重傷5、軽傷361等)の際は、近隣町村被災者の救出・救援並びに災害の復旧に当たった。

 

太平洋戦争終結50周年を記念し、改めて世界恒久平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世に伝えるため、この碑を建てる。

 

 

 

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6本の滑走路があります。

 

防空壕?

 

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東端公園周辺にはいくつかの航空基地の痕跡が残っています。これは防空壕?

 

申し訳ありませんが私の下調べが甘く、なんとも断定できません。ただの盛り土に見えないこともありません。

 

位置的にはあっているような気もしますが・・・

 

弾薬庫

 

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こちらのレンガ調の倉庫は、米軍の空襲で屋根が抜け落ち壁だけとなった弾薬庫に、あとから屋根だけとりつけて、倉庫として使用されているそうです。

 

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道路を挟んでその向かいにある弾薬庫跡。こちらは空襲でかなり破壊されてしまっています。

 

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別の角度から見ると壁が残っています。

 

畑の中の燃弾庫

 

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先ほどの特別老人ホーム内のものと同様の燃弾庫が畑の中にありました。

 

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私有地内なので近づけませんが、アップにして写真をとってみます。子供の遊び場になりそうですね。

 

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長さは10mくらいあります。相当に大きな構造物なので、しばらくはこのまま残るのでしょう。

 

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謎の構造物

 

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燃弾庫の手前にはこのような謎の構造物が残されています。

 

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先ほどの安城市のホームページでも用途不明施設の跡と紹介されています。

 

安城市立明祥中学校

 

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安城市立明祥中学校です。基地本部であった木造の兵舎は、昭和22年(1947)に開校した明祥中学校の校舎として昭和60年(1985)まで使用され、その後取り壊されました。

 

その他の痕跡

 

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出典:安城市HP

https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/documents/meiji-heimenzu.pdf

 

今回紹介した痕跡以外にも航空基地の東側に2つの燃弾庫、そして当時の和泉地区、今の泉町内に非常用発電所跡が残されているはずです。

 

再度書きますが、私の下調べが足りず、ほぼ航空基地を1周したにもかかわらず発見することができませんでした。

 

また機会があったら捜索し、見つけたらここに追記したいと思います。